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「アジャストメント」 [映画]

久々に、アメリカ映画でひどい出来だと思いました。「アジャストメント」

「人の運命は、天使たちが握っている。だから、運命からはずれそうになったら、天使たちが『アジャストメント』する」というプロットなんですが、この扱いがまー、ズサン。

天使たちは、間抜けな(寝坊!?)ミスを繰り返し、そのたびに大慌てで右往左往。

そのミスのリカバリーも、間抜けな方法ばかり。(隠れてるの見つかっちゃうなんて!)

記憶を操作できるなら、とっとと操作しちゃえばいいじゃん。


しかも、後出しルールが山ほど出てくるし。

あのさ、マット・デイモンとか言いましたっけ? 主演の方。
あなたね、プロフィールみると、アカデミー脚本賞をとってらっしゃるそうなんですけど、ちゃんと脚本を読んで出演しましたか? 



この映画は、コメディーにすべき映画でした。三宅隆太監督の言うところの、フィクションラインがめっちゃくちゃ。
特に、天使たちの設定は、めっちゃくちゃ。シーンを撮影したあとに、脚本を書いちゃったかのような、後出しぶり。まだ、最初から後出ししてた「キサラギ」の方がマシだと思っちゃうような。

ちゃんとコメディーとして取り組めば、フランク・キャプラ的な佳作にはなったような題材なのに、もったいない。

ヒロインの女の子は、「プラダを着た悪魔」で、あれだけコメディエンヌぶりを発揮してたんだから、すなおーにコメディーにすればよかったのよ。

こんな映画が、マット・デイモンが主演てだけで、日本公開が決まるってことまでも、腹が立ってきました。

配給会社はとばっちりかもしれないけどね。

アラジン~見終わりました [映画]

美女と野獣よりは、ずっと出来のいい作品でした。

それはもちろん、ジーニーの存在なんだけど。

でも、やっぱり、「プリンセスと魔法のキス」や「塔の上のラプンツェル」よりは劣ると思いました。


何度も書いてるかもしれないけど、ジョン・ラセターの存在が大きいような気がしました。


「子供が見る映画なんだから、この程度で大丈夫だろう」というのが一切ないのです。プリンセスとラプンツェルは。

妥協を許さない。というと、ずいぶんしゃっちょこばっちゃった感じがするかもしれませんけど、フレンドリーなイメージはそのままに、妥協を許さない制作スタイル。

それが、現在のディズニーを支えているような気がします。

はっきり言って、「リトル・マーメード」や「美女と野獣」、「アラジン」「ライオン・キング」などの、第二期ディズニー全盛期を、大幅に凌駕する状況だと思います。今の、ディズニー映画。

ここまで、ストレートにミュージカルを映画にするのは、もはやディズニーしかないのではないかと思ってしまったのでした。

アラジン [映画]

いまさら、なんだこのタイトルと思っているでしょうが、
塔の上のラプンツェルを見てから、ディズニークラシックを見直している(というか、初めて見るものも多いのですが)のです。

先日は、「美女と野獣」を見ましたが、スコアはすばらしかったものの、脚本が意外なほど穴だらけで、正直がっかりしました。

で、今回は、「アラジン」を見ました。

正直、二十分ぐらいまでは、ストーリーもあまり入ってこず、「はずれかな」

と思ったんですが、ランプの精「ジーニー」が出てきてから、一変しました。

ジーニーすごい! すばらしい! (すでに二十年も前に見てる人には「アホか」でしょうが)

躍動感、馬鹿馬鹿しさ、愛らしさ。最高です! 

まだ、鑑賞途中です。

これから、続きを見ます。

塔の上のラプンツェル [映画]

見てきました。

見る前は、そんなに期待はしてなかったんです。「プリンセスと魔法のキス」が出来がよかったので、連発していいこともないのかなあと思っていたし、情報も調べてなかったし、正直どんな話なのかも知らずに見に行ったし。

で、結果…

大傑作だと思いました。

何しろ、始まって数分後から「ああ、この幸せな時間が終わらないでほしい」と思うくらいに、とにかく楽しい! 

CGの絵がキレイなのも、3Dの効果が抜群に効いていたのと、ストーリーが王道の中の王道というくらいの王道のプリンセスストーリーなんですが、ともすれば「ベタ」だとか「先が読める」とか言われがちなのに、真っ向から勝負して、「ベタでどこが悪い」「先が読めたらつまらんのか?」と勝負をかけてきます。

そしてなによりも、ミュージカルとして一級のすばらしさを持っています。

オペラとミュージカルの違いって何だか知ってますか?

オペラはストーリーを歌で綴っていきます。ミュージカルは、ストーリーは歌で表現は、基本しません。その時の登場人物の感情を歌にするんです。

つまり、通常の映画では「黙っている場面」がミュージカルの歌場面なわけです。

「ミュージカルは突然、脈絡もなく歌い始めるのが気持ち悪い」と思うのは、歌でストーリーを語っているのだろうと思ってしまうからです。

ミュージカルが苦手な人が楽しみたいのなら、歌い始めたら、その場面は通常の映画では黙っている場面だと思うのがコツです。

通常の映画では黙って、表情やしぐさで気持ちを表現している場面を、歌で表現する。それがミュージカルです。

ですから、ミュージカルの歌っている場面では、基本的にストーリーは進行しません。

それがわかっていれば、安心してミュージカルの歌(そしてそれに付随するダンス)も違和感なく見られるんじゃないかな。

この映画はその基本をきちんと守っています。

歌う場面で、登場人物がどんなことを考えているのか。その「気持ち」を歌で表現することに徹している。

ミュージカルのスコアのすばらしさ。歌詞の喜びに溢れた感じ。それが、まさに鳥肌を呼びました。


絶賛ですね。いいのかよ。


ストーリーで一番感心したのは、主人公のラプンツェルが「自分はプリンセスなのだ」と気づく場面でした。

「ああ、そうくるのか。それを使うのか」と感心しました。


そのあとのニセ母に対する、ラプンツェルの豹変。そこだけが、この映画の弱点だとは思いましたが。


「塔の上に拉致されているプリンセスを、泥棒が助ける話」

カリオストロですね。

「カリオストロのパクリじゃん」という、おマヌケさんもいるんでしょうね。

そもそも、カリオストロの世界観がディズニーのパクリなんですからね。

ジョン・ラセターがカリオストロを見てないはずはなく、もちろん「猛烈に」意識しているとは思いますが。


それにしても、ジョン・ラセターがディズニー入りしてからの、この作品類の連発の凄さは、どういうことでしょうか。「ボルト」「プリンセスと魔法のキス」そして「塔の上のラプンツェル」
おそろしささえ感じます。


日本語吹き替えで見ましたが、ミュージカル場面でも吹き替えキャストが歌を歌っています。日本語で。
これも、なかなか結構なお点前でした。

敵役のゴーテルの吹き替えをやってるのが誰だか分からなかったんですが、元宝塚の剣幸さんでした。
なるほどの腕前でした。


この映画、ここへきて今年のベスト「ワン」級が飛び出したと言っても、いいと思います。

「ヒックとドラゴン」以来の、「3Dで見るべき映画」です。

オススメです! 

神聖かまってちゃん~ロックンロールは鳴り止まない [映画]

見てきました。

下北沢にも映画館があるんですね。映画館というか、プロジェクターで写す小屋ですけど。

有名な(下北サンデーズでも登場した)古着屋のシカゴの二階にあります。TOLLY WOODという小屋です。


神聖かまってちゃんて、何のことやら、最近までチンプンカンプンでした。ロックバンドなんですね。
ノートパソコンで実況しながらライブをやる。新しいなあ。新しいことってまだまだあるんだなあ。


人生で、難問をつきつけられた3つの場面の人間たち。彼らが、それを突破していこうとする物語です。
神聖かまってちゃんの、ライブの曲に励まされるように。

具体的に、励まされるわけではありません。この歌詞に、このようにという、野暮なことは、入江悠君のことですから、やりません。

彼は、非常にさじ加減のうまい演出家だと思うので、陳腐とは無縁です。

しゃべらせすぎないし、写しすぎない。

でも、写すべきところはちゃんと写す。しゃべらせるべきことはちゃんとしゃべらせる。

そのさじ加減が非常にクレバーだと思います。


僕自身は、神聖かまってちゃんにはげまされることはないかもしれない。(あの、ダラッとした歌い方には、イラッとするほうなので)

でも、この映画にははげまされるわけです。

いま、社会的にも自分の個人的な問題に関しても、ハードルが次々に襲ってくるような、未曾有な状況なんですが、「上等じゃねえか」という態度で、決意で、覚悟で、やるしかない。

僕は「自分は何のために生きているのか」とは考えません。
自分が何かのために生きているなんて、思いたくない。

「自分が生きるために、何をするのか」を考えて生きていきたいと思っているのです。

生きるということがトップです。その他のことは、生きるためにあるものだと考えたいのです。

生物として生まれたからには、生きることがトップでなければならない。

生きることを邪魔するやつらは、やっつけなければならないのです。


と、まあ青臭いことを書いてしまいましたが、許してね。


入江悠くん。まだまだ製作環境に恵まれてるとはいえない状況のようです。

しょうもないゴミしか撮れないような映画監督に出す金があったら、その半分でもいいから、入江くんに遣わせてあげて、と思ってしまいます。


英国王のスピーチ [映画]

なんかもうね、あらすじを聞いただけでも、泣いてしまったわけですよ。僕のばやいは。

吃音に悩む、王様の次男坊が、長男の世紀の恋という名の「勝手」「わがまま」のおかげで、王様に祭り上げられてしまうわけですよ。
だけど、当時はファッショと共産主義がどんどんと力をためている時期。イギリスやばい! イギリス人ビクビク!
イギリス側の各国もビクビク!
そんななか、なんか言わなきゃいけないんですよ。落ちたりとはいえ、大英帝国の王様としては。鼓舞する何かをね。吃音でね。

それを淡々と真っ正面から描いているわけだし、コリン・ファースの一世一代の名演もあいまって、特に非の打ち所の無いような出来になっているわけですよ。

ネタばれします。注意。










もうちょっと。











最初の泣きどころは、ジョージ6世が、ローグに向かって、半ばいらだって怒鳴るように、はたまた冷めたように、あるいは苦しむように、自分の子供の頃の育ちのつらさ(客観的にはつらい)を語るわけですよ。

でもね。プライドってもんがありまさーね。人間誰にもね。「こんなことがあったけど、基本幸せだったんだよ」「こんなことされたけど、基本楽しかったんだよ」「家族、こんなだったけど、基本満ち足りてたわけよ」という態度で、ジョージ6世が語るわけよ。

それがもうね、涙がしみじみと出てくるわけなんだなあ。

あの~、セリフで語ってる事の意味で判断する人って、最近は意外と多いんだってこと、知ってます?
そのセリフを、その内容とまったく逆の気持ちで、しかもそれと気づかず、語るのが人間なんですよね。

ワザと反対のことを言うのもあるのね。もちろん、時にはね。
でもさ。「無意識」に反対のことを言っている人に、グッと来たりしちゃったりなんかしちゃうのね~。

それが、意識下のその人の感じていることが出てくる瞬間だったりするからなんだろうね。

それがありました。

そしてラストね。
あれはもう、ラジオの構成作家です。ローグ先生は。

「自分の方が上手にしゃべれるかも。こうしゃべれば、うまく伝わる知識はあんたよりあると思う。しかしね。オレに無い、圧倒的な説得力を持っているのは、あなたなんだよ」

みたいなね。

まあ、いい映画でした。
日比谷シャンテでみたんだけど、あんなに混雑してるシャンテは久しぶりでした。

いま、どうもシャンテは3スクリーン、全てで「英国王のスピーチ」をかけているみたいですね。
おかげで、上映スケジュールだけをぼんやりと見ていると、上映が始まって、次の上映が一時間後で、なんだか一時間ぐらいの長さの映画みたいに見えちゃってるという。

アカデミー作品賞で、これだけ納得したのは何年ぶりだろう。

早い話しが、みなさん、去年のアカデミー賞作品賞ってなんだったか、覚えてます?













「ハートロッカー」です。


オレ、この問題自分で出して自分で考えて「確か…スリムドックミリオネア…だったような…だけど、あれは…一年前ってことはないよな…(ウィキペデア!)ハートロッカーじゃん」状態でした。


見て損はないですよ。


オーケストラ!! [映画]

オーケストラ!!

キラ☆キラで、慶子ちゃんと神足さんが喋っていたので、公開時に「ル・シネマ」で見たんだけど、DVDで見直してみました。

まあ、この映画はラストのコンサートのチャイコフスキーのバイオリン・コンチェルトのシーンが白眉で、ほとんどそれのみと言ってもいいような映画なんだけど、

それまでのコメディー部分は、なんというかやっぱりアメリカのスピーディーなコメディーを見慣れているからかもしれないけれど、いま一つもっさりした感じもあって、「もうちょっとウケが取れるのに」とイライラしてみたり。

ただ、そのクライマックスのコンサートシーンが、ホントに感心したので、ちょっと書いてみる。

ネタバレします。注意。







この映画は、珍しく、エピローグが前倒しで出てきます。つまり、コンサートシーンに、コンサート後のシーンがフラッシュでいくつか登場します。

これがうまい。

フィリポフ楽団のその後の成功や、マスコミの絶賛、
アンヌ・マリーの母親の写真を、アンドレイとイリーナが笑顔で見せるシーンや、
ボリショイ交響楽団に中指立てのシーンとか、通常ならコンサートが終わったあとに登場すべきエピローグを前倒しに、挟み込んでくる。

これはもちろん、本当のラストシーンをコンサートシーンの、スタンディングオベイションの中での、アンドレイとアンヌ・マリーの涙の抱き合いシーンのストップモーションで終わるのが第一の目的なんだけど、

このエピローグの前倒しによって、映画を見ている客はバイオリン・コンチェルトを聞きながら、平行してのちの成功を知ることになり、同時に、その成功をつかんだのは、まさにこのバイオリン・コンチェルトの瞬間なのだということが浮き彫りになってくる。
奪われた未来と隠蔽された過去。アンドレイとアンヌ・マリーのそれぞれの得るべきものを得た瞬間が、今この時なのだということが、心に迫ってくる形で表現される。

だからこそ、このシーンが人生のハイライトとしてのシーンに見えてくる。アンヌ・マリーのソロをきっかけに楽団の音はピンと張りつめた美しさを帯びるのだけれど、意外と早い時間にそれは訪れる。
だが、その後のすばらしい演奏シーンが長いために、「まさにつかむべきものをつかんだ人々の瞬間」として、しみじみとしみこんできて、それが感動につながっているのだなと思える。
演奏終了後のスタンディング・オベイションが、つかむべきものをつかんだ人々への賛美にもみえる仕掛けになっている。

エピローグ前倒しのこの効果は、当然監督は狙っていたと思われ、「うまいなあ」とうなってしまった。



あしたのジョー [映画]

一連の、漫画原作映画の中では、かなりいい方だと思う。それは、もちろん山Pと伊勢谷君の圧倒的な肉体の説得力による。

ヤマトよりはずっといい。ただ、監督のジョーの掘り下げが間違ってるとおもった。

そもそも、丈は誰からも求められず、親からも捨てられ、そんな世間や社会や人々を憎みすぎ、ついにはバカにするようになる。やがて自分すらバカにして自嘲的に笑う。

だから最初の頃の丈は、いつだって何かをバカにするように「ヘヘッ」と良く笑う。

そこにあるのは、「あきらめ」だ。丈が社会に牙を向くのは、
「あきらめたんだよ俺は! お前らのせいで何もかも! なのにそんな俺になんか言ってくるんじゃねえ!」
というたぐいの怒りだ。決して、自分の思い通りにならないからというような怒りから発生したものではない。

そんな丈にとって、力石に求められるという状況は、生まれて初めての経験なのだ。
「あしたのためにその1」で、力石の顔面をノックしたとき、力石は初めて丈に扉を開けた人間になったのだ。

段平ではない。段平は、丈が力石と会話をするための道具にすぎない。丈にとって「あしたのために」だけが、力石と話す言語だからだ。
丈が段平に「早く次のあしたのためにを送ってくれ」と頼むのは、言語でコミュニケーションを始めたばかりの子供が、親に「あれはなに?」「あれはなに?」と聞きまくるのに、よく似ている。
丈に初めて、「向上心」が生まれた瞬間だ。

力石に求められて、丈は生まれて初めて自分の存在価値を感じる。
そのシーンが感動的なのは、バカにして全てを笑ってた状態まで追い詰められていたからなのだ。
その存在価値を確認するためには、力石とグラブを交えなければならない。
力石と話すためには、「あしたのために」を使うしか、丈に方法はないからだ。

ウルフに半殺しにされても起き上がり続けるのは、力石の声が聞こえ、「俺は力石と話さなきゃならない」と思うからだ。それはもはや本能的なもので、その「力石と話す」という本能がトリプルクロスの本能を呼び起こす。

今回の山Pは笑わないアイドルだから仕方ないのかもしれないけど、やっぱり「ヘヘッ」と笑わせるべきだったとおもう。ただ世間に対して怒っているだけでは、足らない。
何もかもバカにしてせせら笑っていた丈が、生まれて初めて見つけた自分の存在価値を奪われるから、力石の死にすがる丈に号泣できるのだ。

ここの山下君の芝居はよかったと思うよ。ただひたすら力石の名を呼び続ける丈。
だけどね。前半で周りの全てをバカにして笑っていた丈を、観客がもしも見ていたら、感動は倍加したに違いない。「俺にまた、全てからバカにされ、全てをバカにしなきゃならない、あそこに戻れって言うのか」っていう。

丈は力石の死以降苦しむが、それは力石が死んでしまったからというよりも、あの時、力石ときちんと握手が出来なかったからなのだ。人を受け入れるという行為を、したことがなかった丈。初めて人を受け入れてみることにする。それを奪われる。永遠に感じることが出来ないかもしれない感覚。

あの時、力石と握手をしていたら、その感覚はどんなものであったのか。丈は、それを求める旅に苦しみながら向かっていくのだ。

そして今回の実写版。

今回の丈は世間に怒ってるところまでしか行ってない。これは山Pの責任では全然なく、やはり演出、演出家の問題だと思う。ただ怒っているだけでは、まだ丈は自分をあきらめていない。怒るということは、あきらめていない証拠だ。

丈がいったん自分の人生をあきらめてしまわないと、力石との出会いの意味合いが違ってくる。
「やっと勝負できる相手が見つかった」ではなく「勝負してくれる相手がいたのか」なのだ。

丈のことを「矢吹」ときちんと呼ぶのは力石だけなのだ。(葉子は矢吹君と呼ぶが)

ちなみに、場内は山下君のファンらしき女性が一杯だったんだけど、その子たちが、丈と力石の握手の手がすれ違うとき、「えっ…うそ」「なに…なに?」「やだぁ」とリアルにつぶやいていたのが、微笑ましかった。

なんで今日はやらへんの? [映画]

その街のこども。

去年の1月17日にNHKで放映された、1時間ドラマです。
神戸の大震災の15年後を描いたドラマ。

「いい女の顔面を写メしてこい」
こんな会社の先輩の命令を受けるという、ちょっとしたきっかけで、新神戸の駅に舞い降りた森山未來くん演じる勇治。逆に佐藤江梨子演じる美夏に声をかけられる。
「三宮から御影まで歩いてどのくらいですか?」

こんなオープニングから始まるドラマ。「その街のこども」

偶然、見ることが出来たドラマ。

途中から涙が止まりませんでした。

その時、確信しました。
「絶対に視聴率は悪いわ。けど、絶対に賞とるわ。このドラマが認められへんなら、ドラマみるのやめるわ」

神戸出身なんです。俺。

でも、震災の時には神戸にはいませんでした。その二十年も前に東京の人になってました。

けど、神戸で生まれた人間は例外なく、「自分は神戸の出身やねん」といいます。「兵庫の出身やねん」とは絶対に言いません。

神戸の人間であることに、誇りを持っているんだと思います。聞く人が聞いたら、厭味かもしれませんけど。


いまから16年前、朝、かみさんに起こされて、「なんか、神戸が大変なことになってるみたいよ」と言われ、テレビをつけました。
涙が止まりませんでした。
「俺の神戸が無くなっていってるやんか。現在進行形で」

何もできませんでした。
その後、神戸に行けたのは、何年もあとのことでした。

すっかり元気をとりもどした(かにみえた)神戸。
三宮の見覚えのあるビルは低くなったままの場所もある。

それでも、自分のルーツはここにある。実感しました。

その神戸の震災を体験した二人の男と女。少年と少女時代。
そんなドラマ。

会話はドラマと思えないほど自然で、本音で、切ないものでした。
「こんなん、脚本でかけるかぁ!」

今日調べたんですが、「三ノ宮~御影間」は約5キロ程度。
東京で言うと、渋谷駅から東京駅まで歩く程度の距離だと書けば、分かりやすいのかもしれません。

終電が終わったあと、その距離を「行って」「帰ってくる」。5時46分までに。

俺は時々思うことがあります。
「神戸の出身と言いながら、誇りを持ちながら、震災を経験してないことが恥ずかしい。なんか、神戸出身者の欠陥品みたいな感じがするわ」

何年か前、たしか森本毅郎さんのラジオで、こんな街頭インタビューを聞いたことがあります。

戦争中、小学生だった人が、クラスの仲間のお家が次々と空襲の焼夷弾で焼き払われる中、自分の家が空襲を免れて、無事でいた。それが、どこか申し訳なく、肩身が狭い思いが、確かにあったと。
そして、数日後、自分の家が焼夷弾で焼かれたとき、親たちには申し訳なかったけれども、クラスの仲間と一緒になれたと思って、ちょっとうれしかった、と。

不謹慎な話です。冗談じゃないよ、と思う人もいるでしょう。

でも、この、一般の、どこの誰だか分からない人の話を聞いたとき、「リアルだ。この人はとっても正直だ。俺の震災を実体験していない、なんとも言えない思いに似てる」と思ったのを覚えています。


昨日、恵比寿の東京都写真美術館で、このドラマの「劇場公開版」を見ました。

やっぱりまた、泣きました。
そしてまた、「なんで俺はあの時、あそこにおらへんかったんやろう」とも思いました。
「神戸出身者グループとして、どこか仲間外れにされてしもた」とも思いました。
不謹慎なのは判ってます。
けど、なんかどこか。「俺、仲間のはずやのに、めっちゃすごいことを俺のおらんところでみんながやってる(ごめんなさい)」と思ったのはホントに事実なんです。

「おったら、どんな悲惨な目にあったと思っとるねん。ちゃらいこというな」と思われるかもしれないけど。


今回の劇場公開版の公開。話を聞いたときには、「やっぱりやんか。そらそうやんか」と思いました。

けどね。

今日、東京写真美術館が今日が休館日って、どういうことなんでしょうね。

東京都のものだから? 毎週月曜日が休館日やから? 

もう、絶対に慎太郎には入れません。出えへんやろけど。


もうすぐ1月17日が終わります。



なんか言っときたかった。

「3時10分、決断のとき」 [映画]

最高の男泣き映画でした。

前々から、「いい、いい」とは聞いていたんですが、ここまでとは。
ラスト10分、男なら、涙なくしては見れません。

この映画が2年もお蔵入りしてたなんて、どーゆーこと? 

今年の男泣き映画「グラン・トリノ」「レスラー」そして、この映画。だよ。やっぱ。

頑張って、豊洲まで行ってよかった。しかも、豊洲の1番スクリーンだよ! 日本最大のスクリーンだよ!
観客、8人だったよ。すごかったよ。膨大でスカスカの観客席。

心置きなく、涙をながしていましたとさ。

この映画をみる前に、「カムイ害伝」という、ひっどいしろものを見たってのもあるんだけど…

クドカンくんは、みんなにこんなホンを書いたと思われて、平気なんだろうか。たぶん、大幅に変えられたんだろうけど。

それは、まあ、いいとして…

ところで、「3時10分」に、ピーターフォンダが出てたの、あとから知ったのね。

「ずいぶん年をとったな」という、奇妙な台詞があったんだけど、そーゆー事だったのね。

全然気がつかんかった。

これから、目黒や三茶、下高井戸なんかの名画座に回るはずだから、みんな絶対に見た方がいいよ。

ティッシュかハンカチを、必携してね。

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